ひきこもりのマーロン

マーロンの雑記ブログ

ちゃんと伝える曖昧に~金田一春彦『ホンモノの日本語を話していますか?』を読んで~

金田一春彦の『ホンモノの日本語を話していますか?』を読みました。

この本は日本語について例を出して紹介されているのですが、その中から特に気になったものを紹介したい。

 

「ちょっと」という対応

第2章の「日本語に表れる日本人の性質」から

自分が留守をしているときに、お客さんが来て家族が対応する時の場面で

家族の対応で日本人は見当をつけると著者は述べています。

本ではこんな場面の対応について例を出していました。

「いまちょっと出ておりますが」と言ったら、これはすぐに帰ってきそうだ。「いま、ちょっと、出ておりますから」と言ったらなかなか帰ってきそうもなさそうと思う。

この2つの文を読んで言ってることはほとんど同じなのに伝わり方が変わる。普段はあまり意識はしていなかったので面白いと感じた。

 

「ちょっと出てくる」、「ちょっと出かけている」と言ったり、言われたりすることはある。しかし「ちょっと」って期間を意識したことはない。

あなたは意識したことはありますか。

実際にその期間が5分、10分、30分それとも1時間かなんて考えないと思います。

 

よく見る「ちょっと」の具体例

 

さらにこんな会話がよくドラマでみたり、実際にあったりするかもしれない。

Aさん「ちょっと出てくる」

Bさん「どのくらいで戻りますか」

Cさん「あれはしばらく戻ってこないぞ」 

CさんはAさんが「ちょっと」と言って出かけたら、直ぐには帰って来ないと感じている場面。CさんはAさんについてよく知っている。Bさんは出会ったばかりである。

 

ここで重要なのはCさんがAさんのどこを見て判断するのか。

例えば、声の大きさ、言い方、顔の表情、目つき、目線と目の動かし方。ほかにも歩き方、姿勢。そして持ち物とそれの持ち方。ほかにも判断することはいろいろとある。

 

「ちょっと」と言ったのに「ちょっと」でないことはよくあることだ。

つまり「ちょっと」は曖昧である。さらにCさんの「しばらく」も曖昧だと思う。

でもこの曖昧さは日本語であって、なければならない感じはある。

 

曖昧なことからその背景にあるものを感じ取ることは日本人であると私は感じる。そして曖昧さを上手く使いこなせるのは技術である。

 

例えば「好き」と「嫌い」は、「ちょっと」より意味がちゃんと伝わるが、使い方次第でははっきりしなくなる。「嫌い」が「好き」という意味になるときもある。

 

しかし現在はハッキリと自分の意思を伝えることは重要なことになっている。

これはハッキリと言わないと伝わらない人が増えてるということでもある気がする。

 また言ったことしか伝わらない人もいる。

これは問題ではなくて、そこに察することができる人がいるかどうかが一番重要なのだと私は思う。

 

 

 

ホンモノの日本語を話していますか? (角川oneテーマ21)