夏目漱石「こころ」読書中。その3
夏目漱石『こころ』が読了しました。
先生の遺書の中で、友人Kが我慢と忍耐の違いを理解してないのではないか先生が思った部分が、自分にも重なるところがあったので印象に残った。
我慢と忍耐について『こころ』では、次のようにある。
肉体なり精神なりすべての我々の能力は、外部の刺戟で、発達もするし、破壊されもするでしょうが、どきながら、自分はもちろん傍のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。粥ばかり食っていると、それ以上の堅いものを消化す力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。だから何でも食う稽古をしておけと医者はいうのです。 けれどもこれはただ慣れるという意味でなくてはなりますまい。もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみればすぐ解る事です。
この文章を読んでいろいろと考えてしまった。
外の世界に出ると、楽しいこと、つらいこと、得るもの、失うものなどいろいろとあります。しかし内にこもっていれば、直接的な外の世界の刺激を上手く対処していくことがだんだんと難しくなります。口が回らなかったり、共感能力が少し衰えたりするのを私は感じました。
勝手な考えだが、自分で忍耐と我慢の違いを理解できるなら、やりがい、楽しさなど精神状態を自分で感じれるのなら忍耐で、つらかったり頭が真っ白になったりすることが頻繁にある場合は、我慢になるのだろうと思う。
外界の刺激に耐えている状況にある本人は、忍耐と我慢の線引きみたいなものをわかっていないと自分の体を壊していることにも気づけない。
何かに耐えている当事者の周りの人たちが気付いてあげることができれば、体が壊れる前に病院にいったり、フォローしてあげたりすることができる。
結局、自分以外の人とつながることは大事なんだと感じた。
最初からつながりを見つける場合は直接でなくても良いと思う。ネットで見つけても良いと思う。
読書をしていると文通のやり取りをしている話をちらほら見かける。今は、インターネットがある。掲示板、SNS、ブログと方法はいろいろとある。
文通とネットの違いは、アナログとデジタルの違いだけだと考えている。
まだ難しいかもしれないが、つながりを求めるのも悪くはないと思った。