ひきこもりのマーロン

マーロンの雑記ブログ

読書とはー齋藤孝『読書力』ー

齋藤孝『読書力』

読書とは

読書をするとはどういうことなのかこの本ではわかる。読書を趣味として楽しむ人もいる。娯楽としては確かにあるが、この本では、自己形成の手段になるといっている。

何のために読書をするのか。読書をすると何がよいのか。こうした問いに対する私の答えは、たとえば、読書は自己形成のための糧だからであるというのものであったり、読書はコミュニケーション力の基礎となるからだ、といったものである。(p.4)

著者自身が読書から多くの恩恵をうけていることがこの本でわかる。また著者は、

「読書力」は日本の地力だからだ。私は、この国は読書立国だと勝手に考えている。(p.1)

確かに技術大国の日本にとって、知識は重要な資源だ。その資源としての本、そして読書は大切な手段と思った。

著者の設定する読書力があるとは、「文庫百冊、新書五十冊を読んだ」(p.8)である。

しかも「精神の緊張を伴う読書」をするの著者が望んでいる読み方。ある程度の難しさや本の著者との対話をするためにこの「精神の緊張」が重要なのだと思った。さらに「精神の緊張」が伴えば、当然読み終えた時の充実感は格別だと思った。読書とはとても真剣な行為なのである。

読書をする人は教養があると言われる。この本では、

教養があるということは、幅広い読書をし、総合的な判断を下すことができるということだ。目の前の一つの神秘にすべて心を奪われ、冷静な判断ができなくなる者は、知性や教養があるとは言えない。

 専門力をつけていくことは大事なことだと思ったが、ここで自己形成の手段となる読書では総合力が大事なのだと思った。しかし、自己形成していく中で意識的に自分の考えに合わない本を選ぶなどしないとどうしても一つの考えに固執した自己形成がなされるのではとも思った。

読書はチームスポーツなんだと感じた。適材適所の本を入れることが優れた人格、自己形成がなされるのではないか。

とりあえずこの本の中では文庫時代を通ってから、新書時代に行くのが王道らしいので、新書から入った私は、文庫本を読みたいと思う。

 

読書力 (岩波新書)

読書力 (岩波新書)

 

 

忘れない読書をするために

読書を読書体験にするための読書術の本。

 

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

 

 

奥野宣之『読書は1冊のノートにまとめなさい』は、今までの読みっぱなしの読書では頭に残らないのでダメだという。

しかしどうしたら読みっぱなしの読書やめることができるのだろう?

その解決策として提示されているのが本書の「インストール・リーディング」である。

「手にした1冊と濃密な関係を築き、読んだら読んだだけ確実にリターンを得ることができる読書術です」(p.6)

そんな読書術があるなら試してみたいと思いませんか?

インストール・リーディングは次の5段階に分けて考えるという。

  1. 探す
  2. 買う
  3. 読む
  4. 記録する
  5. 活用する

本の出会いからその本の内容を実際に自分で使うところまでが本書の読書体験である。

頭に残る読書体験をするのに必要なものはなんとペンとノートがあれば十分だ。ノートに書きだすのは面倒だと思うかもしれない。読んだ記録だけでも残しておくのが重要だという。

インストール・リーディングで大事なことは継続である。簡単な感想を書くだけでもその効果はあるのだという。さらにその読書が自分にとってどういうものだったのかということが大事である。

他人の意見や感想または重要である場所と違ってもいいのである。その本と読書体験は読む人の数だけあり、記憶に残る部分は様々であるからあくまでも「じぶんにとって」が大事だという。

あなたにとっての本への思いがインストール・リーディングとって大切なことである。

実際に本書で紹介されているねぎま式読書ノート術を試したが簡単でいい。変に小難しいことを書かなくてよいので気が楽である。是非とも試してもらいたい。

 

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

 

 

ヤフオクで見つける。隠語的なもの

最近、部屋の掃除をしています。売れそうなものは、ヤフオクやメルカリで売っています。

 

いつものように、あるゲームを売ろうとして相場を確かめていました。

あきらかに相場にそぐわない高いものがありました。しかも、購入されている。

なぜだが、気になってその商品を見てみました。しかし、当たり障りのない普通のゲームの新品でした。

でも、商品説明を見ておかしいと思いました。

 

なぜなら、「送料は目安で、最安は普通郵便で140円です」という文章。

 

どう考えておかしい気がしました。「送料は目安で」とまず伝えることはしない。

下の送料の欄には、宅急便で一律2000円。

 

多分これは隠語だと思いました。

なにの?わからないです。

 

ここからは予想

荷物を送るときに関係してくるものは送料です。

自分の不用品をネットで売買する人は、気にします。私もその1人。

この送料が表しているものは、重さです。

実際に伝えたいことは重さなのでしょう。

なぜなら、送料欄に宅急便で送料を表示している。

ゆうパックは、重さで送料は変わりません。しかし、ヤマト運輸の宅急便は重さで送料が変わります。

つまり、グラムで売買されているものである可能性が高いでしょう。

100gで売買することができるもので、カモフラージュできるものだと考えました。

 

これ以上、先に詮索する必要はないでしょう。似たようなアカウントでいくつか停止を食らっていました。

もしかしたら、ヤフオクを利用した取引が行われているのかもしてません。

 

 

 

なんで、即答できなかったのだろう。子どもときの究極問答

 20代の大人になりながらも「うんこ」の単語を聞くときゃきゃっと楽しくなります。

最近うんこひらがなドリルというものを見つけました。かわいいですね。

 

日本一楽しいひらがなドリル うんこひらがなドリル (うんこドリルシリーズ)

日本一楽しいひらがなドリル うんこひらがなドリル (うんこドリルシリーズ)

 

 今回はそんな「うんこ」に関係することです。

あなたは、子どもときにこんな問答をしたことはないでしょうか?

うんこ味のカレーとカレー味のうんこ食べるならどっちにする?

絶対どっちか選ぶんだよ。

結局、人によるが「選べないよ~」で終わるのがオチの究極の問答。

 

しかし、本当にこれは選べないのでしょうか?

実は、簡単に選べます。即答できると確信しました。

 

答え うんこ味のカレー

食べ物かどうか

どう考えてもうんこ味のカレーしかありえないと思いました。

なぜ?と考えられる方もおられかもしれません。

 

例えば、昆虫食が食べられないような人ならば、なぜ食べられないのかを考えましょう。少し前までは、昆虫食は一般的に食べられていました。イナゴの佃煮とか有名だと思います。

 

でも、現代は昆虫に頼らなくてもタンパク源となる食べ物が増えました。すると、一般的だった昆虫食は、珍しい食べ物に変わります。

 

つまり、食べものであったことを知らない人が出てきます。ある人は「ヴェッ、これ食べるの」とたいそうビックリするかもしれません。

 

なぜビックリするのでしょうか?その人にとっては、昆虫は食べ物ではないからです。

 

味は重要か

食べものでないから、食べない。

でも、カレーの味は「うんこ」です。味は重要でしょうか?

 

私は、パクチーが嫌いです。ひとくち食べたときに「あっこれ食べたら幻覚起こす危険な食べ物かも」と思いました。

 

でもその時はパクチーブームでした。テレビでもよくパクチー料理の特集をしてました。ある番組でパクチーサラダを食べる人を見て私はありえないと思いました。

なぜなら私にとって、パクチーは食べれるものではないからです。

 

さらに、嫌いな食べ物についてよく出る言葉があります。

「こんなものは、食べ物じゃない」というこのフレーズは定番です。

この言葉は、何も考えていないようで食べものに対する個人の考えの本質ではないのかと思いました。

 

一般的に食べものであっても、ある個人は食べものの枠から除外する可能性があるということです。

 そして除外した食べ物は「食べ物という意識」は一応持っているということです。なぜなら、味を感じるには食べないといけないからです。

 

結論

このような考えからテーマとなる「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ問題」において、重要なことには優先順位があると考えました。

 

  1. 食べ物かどうか
  2. 味はどうか

 

第1の関門を突破できない限り食べ物になることはありません。

結果、私たちが食べ物と意識しないまたは、個人が食べものと意識をしない「カレー味のうんこ」は、まず選ばないだろうという結論にいたりました。

 

よって、「うんこ味のカレー」しか選べないのです。

 

 

 

 

 

 

マシュー・ウォーカー『睡眠こそ最強の解決策である』

睡眠こそ最強の解決策である

睡眠こそ最強の解決策である

 

 マシュー・ウォーカー氏の『睡眠こそ最強の解決策である』を読みました。

睡眠不足は、現代人にとって大きな問題である。この本には、睡眠不足によって起こる問題を教えてくれる。その問題は、仕事をしているあなただけの問題ではない。

なぜなら私たち人間は、生まれたときから必ず睡眠をとる。しかし、睡眠を疎かにする。

睡眠不足で死ぬことがないとでも思っているのか?

 

本書について

『睡眠こそ最強の解決策である』の内容は、

  • 睡眠のメカニズム
  • 睡眠を十分とるだけで成績アップ
  • 生産性と睡眠について
  • 最適な睡眠時間
  • こころの問題と睡眠
  • カフェインの睡眠への影響
  • 記憶力と睡眠の関係

ほかにも睡眠に関わる問題、解決策について科学的かつわかりやすく書かれている。

印象に残ったものを1つ紹介したいと思う。

睡眠不足は伝染する?

睡眠不足は伝染すると本書に書かれている。これは大問題だなと感じた。

睡眠不足になると「創造力」、「判断力」、そして「倫理観」までも落ちると著者は言う。

それが上司から部下に伝わり、部下の能力が落ちるのだから、睡眠恐るべし。

また逆の場合、部下は上司が素晴らしい方であっても、尊敬しない。

企業の重要なポストの方々は、しっかり寝て、重役出勤する必要があるのかもしれない。

またはみんなで一緒に「川」の字なって寝るのもよいかな。明示的な上下関係があるからその場合は「州」の字かもしれない。

著者マシュー・ウォーカーのおすすめする睡眠の解決策

 睡眠コンサルタント、睡眠学者であるマシュー・ウォーカー氏が睡眠を解決したいあなたに行ってほしい睡眠法がある。

それは、「定日、休日かまわず同じ時間に寝て、同じ時間に起きる」ことである。

ウォーカー氏は、この睡眠法をするだけでも、睡眠不足によって起きている問題のたいはんは解消するだろうと言っている。

いつも同じ時間に寝て、起きるだけなら特別な道具も買う必要もないのでやってみる価値はあると私は思う。

また他にも様々な睡眠のテクニックが本書にはのっている。

さいごに

 睡眠にかかわる少し古い本には、自分の睡眠時間が変えることできると書いてあるものがあるが、本書はひとりひとりで決まった睡眠サイクルがあるという。

記憶が定かではないが、睡眠学が広まり始めてからまだ20年ちょっとぐらいだと思う。

実際は、ここ最近の睡眠ブームの広がりが顕著にみられる。

まずはこの本を読むことをあなたの睡眠の儀式にしてはいかが?

 

 

 

 

常識でしょ!?という反応への違和感

まず想像してみてほしい。

そこは楽しい宴の真っ最中だ。家族の団らん風景かな。それとも久しぶりに会った同級生と食事会をしているのか。いや同僚との飲み会か。

どの場面でもいいが、あなたの頭のなかで強烈にイメージしたその風景のなかでの会話について。

 

おっ何か話しているようだ。ちょっと聞いてみよう。

「そういえば、いつも行ってるあの店もプラスチックストローが廃止になるみたいよ」

“へ~そうなんだ。なんで最近プラスチックのストローがなくなっていくんだろう”

「えっ!?ニュースアプリとかで確認しないのSNSでも見るよ。マイストローとか聞いたことない?」

“えっうそ!?はじめて聞いたよホントにー?”

「これだけ話題になっていたら普通に知ってると思ってた。常識でしょ?」

ストップ!!

これはごめんなさい。私のイメージを押し付けました。

 私が常々気になるワード「常識でしょ」または「常識」ってなんだってことだ。

 

常識についての勝手な考察

そもそも常識って何か。

広辞苑には

普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識とともに理解力・判断力・思慮分別などを含む。

記されている。 

つまり、常識はどこかで学ぶ必要があるのではないか?

先の会話でもプラスチックストローについて知らなければわからないだろう。

生まれてから死ぬ行くなか、その一定方向に強制的に進みいく時間軸のどこかで学ばなければ、常識はつかない。

しかし、勝手に常識がいつのまにか大人になると備わると思ってる方も多少いるような気がすると私は感じている。

 

問題点

常識という言葉が、なぜだが知らなければいけないような気がする

知らないだけで、自分のなかのプライドのロウソクの一つが、すきま風でスゥーっと消されたような感覚になる。

若者が変な敬語を使う問題も、企業が一番下の現場になんかおかしくないか、と言わないもんだから利用者は間違えて覚えると感じる(特に若年層)。

 なぜなら、言葉についての日本語の知識は覚えなくても普段耳にするから、自分の頭の辞書に蓄積され続ける。(例 東京の人の関西弁)

 

結論

私は、ビジネスマナーなんてものは知らないし、その点については何も言えることはない。しかし、少なくとも町に出れば、ビジネスをしている人は見ることはできる。

 ビジネスマナーを学ぶ必要はあるかもしれないが、外回りの仕事、特に営業の方の話し方や自分がいらつくようなことをしなければそれで十分な気がする。

では、どうすればいい。

人を観察してみよう。そして私たちの心を動かしてくるドラマや映画をみて、感じてみよう。どうしたら、どう感じるのか。

 そして、常識は蓄積物だ。科学のように変わり続けるだろう。世界が変われば経営戦略を変える企業のように私たちも常識を変えることはできると思う。

 

 

 

 

 

 

代助どっちどっちどっち~夏目漱石『それから』よんで~

夏目漱石の『それから』を読み終えた。

 

代助が親友の妻である三千代に恋をする。

そのときの代助の感情表現の部分が気になった。

 

凡ての娯楽には興味を失った。読書をしても、自己の影を黒い文字の上に認める事が出来なくなった。落ち着いて考へれば、考へは蓮の糸を引く如くに出るが、出たものを纏めてみると、人の恐ろしがるもの許であった。仕舞には、斯様に考へなければならない自分が怖くなった。代助は蒼白く見える自分の脳髄を、ミルクセークの如く廻転させる為に、しばらく旅行しやうと決心した。

 
自己の影を黒い文字の上に認める 

「自己の影を黒い文字の上に認める」この部分は最初はよく意味がわからなかった。

しかし読書をしているときは少なからず本の世界に自分の身を置いていることはあるなと感じた。

 

とくに小説を読めば、ときに嫌悪感を覚えたり、感動したりする。感情移入をすることが「自己の影を認める」ことになるのだろうと思った。

 

「考へは蓮の糸を引く如くに出る」

蓮の糸?レンコンの糸のことかな?と思ったが、わからなかったので調べた。

 

広辞苑によると

蓮の糸

蓮の繊維を集めてつくった糸。極楽往生の縁を結ぶとの俗説がある。はすいと。 

 

なにか特別な意味は、なさそうだ。

しかし三千代と結ばれることは、代助にとって極楽気分であることは間違いないとは思う。

 

「自分の脳髄を、ミルクセークの如く廻転させる」

ミルクセーク(ミルクセーキ)は、牛乳に卵黄、砂糖などを加えてかき混ぜたものである。

 

代助の頭の中は、「代助の考え」と「三千代への愛情」がぶつかり合ってる。

代助は、みずからを理論家(セオリスト)と思っている。理詰めをすることが多い代助にとって、「三千代への愛情」は説明できないから混乱している。

 

別々にわかれた自分の考えをいろいろな材料を混ぜ合わせたミルクセーキのように一つの考えを出したいのだと思った。

最終的には、おいしい部分だけ取り出したものになってしまったと感じてしまった。

 

まとめ

3つの文で代助の苦しむ姿を表現している。3という数が、読者に対してあっさりとしてなく、また長すぎない。つまり、ちょうどよい感じで苦悩を伝えることができているだと感じた。

 

それから (岩波文庫)

それから (岩波文庫)

 

 

 

 

 

ちゃんと伝える曖昧に~金田一春彦『ホンモノの日本語を話していますか?』を読んで~

金田一春彦の『ホンモノの日本語を話していますか?』を読みました。

この本は日本語について例を出して紹介されているのですが、その中から特に気になったものを紹介したい。

 

「ちょっと」という対応

第2章の「日本語に表れる日本人の性質」から

自分が留守をしているときに、お客さんが来て家族が対応する時の場面で

家族の対応で日本人は見当をつけると著者は述べています。

本ではこんな場面の対応について例を出していました。

「いまちょっと出ておりますが」と言ったら、これはすぐに帰ってきそうだ。「いま、ちょっと、出ておりますから」と言ったらなかなか帰ってきそうもなさそうと思う。

この2つの文を読んで言ってることはほとんど同じなのに伝わり方が変わる。普段はあまり意識はしていなかったので面白いと感じた。

 

「ちょっと出てくる」、「ちょっと出かけている」と言ったり、言われたりすることはある。しかし「ちょっと」って期間を意識したことはない。

あなたは意識したことはありますか。

実際にその期間が5分、10分、30分それとも1時間かなんて考えないと思います。

 

よく見る「ちょっと」の具体例

 

さらにこんな会話がよくドラマでみたり、実際にあったりするかもしれない。

Aさん「ちょっと出てくる」

Bさん「どのくらいで戻りますか」

Cさん「あれはしばらく戻ってこないぞ」 

CさんはAさんが「ちょっと」と言って出かけたら、直ぐには帰って来ないと感じている場面。CさんはAさんについてよく知っている。Bさんは出会ったばかりである。

 

ここで重要なのはCさんがAさんのどこを見て判断するのか。

例えば、声の大きさ、言い方、顔の表情、目つき、目線と目の動かし方。ほかにも歩き方、姿勢。そして持ち物とそれの持ち方。ほかにも判断することはいろいろとある。

 

「ちょっと」と言ったのに「ちょっと」でないことはよくあることだ。

つまり「ちょっと」は曖昧である。さらにCさんの「しばらく」も曖昧だと思う。

でもこの曖昧さは日本語であって、なければならない感じはある。

 

曖昧なことからその背景にあるものを感じ取ることは日本人であると私は感じる。そして曖昧さを上手く使いこなせるのは技術である。

 

例えば「好き」と「嫌い」は、「ちょっと」より意味がちゃんと伝わるが、使い方次第でははっきりしなくなる。「嫌い」が「好き」という意味になるときもある。

 

しかし現在はハッキリと自分の意思を伝えることは重要なことになっている。

これはハッキリと言わないと伝わらない人が増えてるということでもある気がする。

 また言ったことしか伝わらない人もいる。

これは問題ではなくて、そこに察することができる人がいるかどうかが一番重要なのだと私は思う。

 

 

 

ホンモノの日本語を話していますか? (角川oneテーマ21)
 

 

 

 

 

 

夏目漱石「こころ」読書中。その3

 夏目漱石『こころ』が読了しました。

先生の遺書の中で、友人Kが我慢と忍耐の違いを理解してないのではないか先生が思った部分が、自分にも重なるところがあったので印象に残った。

 

我慢と忍耐について『こころ』では、次のようにある。

肉体なり精神なりすべての我々の能力は、外部の刺戟で、発達もするし、破壊されもするでしょうが、どきながら、自分はもちろん傍のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。粥ばかり食っていると、それ以上の堅いものを消化す力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。だから何でも食う稽古をしておけと医者はいうのです。 けれどもこれはただ慣れるという意味でなくてはなりますまい。もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみればすぐ解る事です。

この文章を読んでいろいろと考えてしまった。 

 

外の世界に出ると、楽しいこと、つらいこと、得るもの、失うものなどいろいろとあります。しかし内にこもっていれば、直接的な外の世界の刺激を上手く対処していくことがだんだんと難しくなります。口が回らなかったり、共感能力が少し衰えたりするのを私は感じました。

勝手な考えだが、自分で忍耐と我慢の違いを理解できるなら、やりがい楽しさなど精神状態を自分で感じれるのなら忍耐で、つらかった頭が真っ白になったりすることが頻繁にある場合は、我慢になるのだろうと思う。

 

外界の刺激に耐えている状況にある本人は、忍耐と我慢の線引きみたいなものをわかっていないと自分の体を壊していることにも気づけない。

 

何かに耐えている当事者の周りの人たちが気付いてあげることができれば、体が壊れる前に病院にいったり、フォローしてあげたりすることができる。

 

結局、自分以外の人とつながることは大事なんだと感じた。

最初からつながりを見つける場合は直接でなくても良いと思う。ネットで見つけても良いと思う。

 

読書をしていると文通のやり取りをしている話をちらほら見かける。今は、インターネットがある。掲示板、SNS、ブログと方法はいろいろとある。

文通とネットの違いは、アナログとデジタルの違いだけだと考えている。

 

まだ難しいかもしれないが、つながりを求めるのも悪くはないと思った。

 

 

夏目漱石「こころ」読書中。その2

 

imarlon.hatenablog.com

 前回から『こころ』の「中 両親と私」まで読書を進めた。

『こころ』についてと脱線

後半の部分で、先生自身が「私は亡くなっているかもしれない」と書かれた手紙の場面で、一気に物語として面白くなってきた。

 

そのまま「下 先生と遺書」になるのだが、寝る前に読んでいたので、ちらちら時計を見だした私。明日に予定があるはずでもないのに健康志向の私は、読みたい欲と眠るべきかと考えた末いつも通りに眠ってしまった。

本当なら読んでいるはずなのに、なぜ寝てしまうのか。

私の頭の中では、自分の娯楽の欲に己が負け続けてきた過去がある故に今がある。その後悔がやはり寝てしまうという行動になるのだろうと思う。

 

『こころ』の感想に話を戻そうと思う。

私の父が、体調を悪くして、どうなるのかというところも気になる部分だったが、それよりもこの部分が良いなと感じた。

『こころ』の中で私と兄は、「仲の好い兄弟でなかった」、「性格の相違」があると書いてある。あくまでも、語り手の私の視点でそう思っているが、私と私の兄が父の枕元で握手しているのが、これが兄弟の絆みたいなものなのかと感じた。

 しかし、なぜ枕元で握手をするのか。そこが、なぜか私の疑問と笑いのツボに入ってしまった。

枕元で握手とは、どういう時にするのだろうか。でもしっかりと頭で画が見えた。確かな絆と小さな握手。目と目は、ほんの一瞬だけ見つめあう。こんな感じだろうと思う。これは『こころ』の中では話のちょっとした描写に過ぎないのだが、こんな部分でも気になる。はたして、先生はどうなっているのか。楽しみである。

 

速読と遅読について

私は、音読が好きだ。声に出して、発声して読みたい。だいぶ前に漫画を感情を込めて音読する人をテレビで見て笑ってしまった。しかし登場人物の感情を考えながら読むので楽しいし、理解もしやすい。これは遅読に入るのだろうと私は考えている。

遅読界があったら、完璧に変人タイプであることは間違いないと思う。

 

速読という言葉が、流行っているので、遅い読書をしなくなる人がいるかもしれない。読書好きでないと何でも速読してしまう人もいるかもしれない。

小説は、遅く読むに限る。最近、読書をし始めてから気づいたことです。

しかし、早く読む習慣があるとついつい早くなってしまう。読書の仕方を変える必要があるのだと考えさせられた。

もっと言えば、上手く読むジャンルによって使い分けることができれば良いと思う。

 

 

 

 

 

夏目漱石『こころ』を読書中

青空文庫夏目漱石の『こころ』を読んている。
読書しなかった私は、とても読むのが遅い。今日は、上21章まで読み進めた。

間違っているかもしれないが、自分が感じたことを少し書こうと思う。
先生は、学問を学んだのにその道には進まなかった。しかし、学ぶことは好きである。
本当は、教えることがしたい。教授のなにか(学問的なもの)を批判(批評?)している部分もあった。批判は興味。しかし、教える資格がないと感じてる。親友の死と関係があるのか?
「恋は罪悪だ」とても気になる言葉だった。
先生が言った言葉は、先生がやったことだと思った。先生を書生時代から知ってる妻。
今の段階では、先生、親友、先生の妻が関係するのか?
単純にいくと
題名通りにこころを殺した。心臓にハートとルビが入っていた。

ダメだ。癖でなぞ解きをしようとしている。
もう少し楽しみたい。だが、とても悲しい気分。

姜尚中『悩む力』を読んだ

imarlon.hatenablog.com

姜尚中『悩む力』を読み終わりました。
いろいろと気づきをもらうことができました。

1つ目の気づきは知性について
知性がどういうものかを取り上げている。
「まず情報通は知性なのか?」と問いがある。
私の情報通のイメージとして、幅広い分野知っていること、役立つ知っていること、面白い情報を知っているなどが思いつく。
でもそれは本当の知性なのか。この本が発行されたのが2008年です。まだ今ほどスマホが普及してない。
2008年の情報社会よりも2018年の今のほうが個人が手にいれることができる情報が増えているし、なおかつ手にいれやすい。
情弱(情報弱者)という言葉を聞くと何だがバカにされてるような気がする。
いろんな情報を知っているほうが良いと考えずに思う。
家でスマホを見続ける親なんてのも聞く。
私も情報をたくさん知っていることは良いことだと思ってた。
その情報をどれだけ人生で使うのか?知らなくてもよいことあるんじゃないの?
確かに知らなくて良い情報はあると感じてた。
そのためには

自分の世界を広げるのではなく、適度な形で限定していく。

「適度な形」っていうのも本のタイトルどおり悩んでいくんだろう。
広げ過ぎないようにすること。これもそれもと取っていくと自分がやりたいことが段々とわからなくなる。
お腹いっぱいになっちゃうし、「でも欲しい、情報をくれー」と禁断症状が出るなら、狭めるぐらいが丁度よいかもしれない。

この本の中で忘れないだろう、言葉がある。

究極的には、「信じる」ということは、「何かを信じる」ということではなく、「自分を信じる」ということになると思います。言うなれば、「一人一宗教」「自分が教祖」なのです。

現代は個人の判断もその人生もある意味「自由」だから、自分を信じれることが、力になるなと感じた。「宗教」、「教祖」を使うと勝手なイメージながら一枚壁がある感じがする。でも強さを感じる言葉だと思う。

最後にこのように締めくくられています。

若い人には大いに悩んでほしいと思います。そして、悩みつづけて、悩みの果てに突きぬけたら、横着になってほしい。そんな新しい破壊力がないと、いまの日本は変わらないし、未来も明るくない、と思うのです。

考えすぎる私にとっては、気持ちが楽になる言葉だった。
「横着になる」の意味をそのまま鵜呑みしてしまうと良くないが、悩みやすい、悩んでる人には優しさを感じる言葉。
この本を読み返したくなる日がこないよう「まじめ」に悩み続けたいと感じました。

姜尚中『悩む力』を読書して

悩む力(姜尚中著)を読んでいる。まだ2章までです。ここまでの感想を残します。
行動することに価値を見出している現代。「悩むなら行動」、「時間を有限」と答えを探すと最もらしい答えに納得する自分がいて、わかってはいるものの焦って逆に進めなくなる。
技術進歩も早く、少しスタートが遅れるとあっという間においてかれる。このまま世界がずっと走り続けていく。
本書では、夏目漱石マックス・ウェーバーが書き残したものを手がかりに題名の通り「悩む力」とは、どういうものか教えてくれるんだとか。
100年前の日本でも「神経衰弱」という心の病があったらしい。漱石も神経衰弱に苦しんでいたと書いてあった。ウェーバーも精神病院に入院していたらしい。

第一章

『「私」とは何者か』と自分の存在を問うところで、「自我」と「自己チュー」という言葉が出てくる。
著者の姜さんも一時期は、自己チューだったのではないかと思っている。
次のように述べている。

一見するとナイーブな青年のように見えながら、じつは自分の拵えた小さな城から一歩も外に出ず、のぞき穴から外の世界を窺うように、すべての人間を疑ってかかり、ひたすら自分のことだけに熱を上げている、そんななかばナルシスト的な「自己チュー」だったのです。要するに、明けても暮れても自分のことだけしか頭になかったのです。

自我と自己チューの差は自分ことだけでなく、他の人のことにも悩んでいるか悩んでいないかの違いである。

自分自身がどちらかも今もまだわからない。
姜さんも自我の問題に『「解決できた」と言いきる自信はありません』と書いてある。

きっと永遠に悩み続けるのかもしれないと今の段階では感じる。

私は、読書をほとんどしてこなかったというか小説はほとんど読んだことがない。夏目漱石すら読んだ記憶もない。
大学で文学の講義を受けてたが何が何だかわからなかった。難しい言葉あっちこっち飛び交って、しまいには「大江健三郎川端康成は社会人の常識だから覚えておけ」これしか記憶にない。
本書に「漱石の小説がときに哲学よりも哲学的な印象を与える」この部分を見て、漱石を読みたくなってしまった。なぜかわからないが哲学には興味があって大学1年のときに図書館で哲学の本に手を出したことがあった。たしか・・・フロイトの本だった気がするが、内容がさっぱりわからない。すぐに負けてしまった。また3か月坊主が出てきてしまった。しかし哲学という言葉に必要以上に気になる。自分の芯がないからだと思う。


カール・ヤスパースの言葉が引用してある。

「自分の城」を築こうとする者は必ず破滅する

自分の城をいくら築こうとしても無理であって、人とのつながりでしか自我は成立しないとあった。そのためには、「まじめ」に他者と向かいあうことで突破口が見つかるかもしれないらしい。

「まじめに向かいあう」これは大事なのだろうと本当の自分と見つめ合いつつ他者とも向かいあう。みたいな感じなのかな

第二章

お金について書いてある。
ウェーバーは金持ちの家の子だったとのこと。でもウェーバーは成り上がりの金持ちが好きではなかったみたい。
なかなか難しい立場にあるなと自分は金持ちの子だが、金持ちを批判する。これでは精神病院に入っておかしくはないよなと感じた。
実際に自分がどの階級にいるからとかで悩みかたとかあまり変わらないのかもしれない。
漱石の小説の主人公は、時代に不満をもつが、それにたいしてあきらめてしまっているという共通点があったらしい。
なんとなくわかる気もする。不満があっても、どうしようもできないと感じるとあきらめてそのまま時間が過ぎていく。
そのときの時間の進みは早い。
最後にはお金の価値は不変と出てる。変わらない。でもお金がないと生活ができないから難しいです。


考えがまとまらない。もう少し読み進めていこう。

Twitterって何を書けばいいのだろう?

ブログ用に新しくアカウントを作った。
そもそも本アカウントもTwitterでの情報集めの為だった。
なにをつぶやけばいいのかさっぱりわからない。

何かの発言に対しても善悪、自分の好き嫌いなんかの判断も段々と消えつつあるのか?
それとも思考停止状態になっているのか?
好き嫌いはあるだろう。感情が揺れている感覚はある。
でも好き嫌いだけで決めてはいけない。
発言するときの大前提だと考えている。

ほかにも思いあたるいくつかの理由がある。

私は、小心者だ。
自分が傷つくのは怖い。誰しも「自分が傷つくのは怖い」と思っている。
でも発言している。発言している人は、すごいと感じる。敬意を払わなければいけない。
しかし感情むき出しはあまり好きではない。

自分には責任感がないのかもしれない。
責任感という言葉を聞くと、自分のそれまでの人生をすべてBETして物事が進む気がする。
大きく物事を考えすぎてるのはわかる。でも変わらないし、なかなか変われない。
心の燃料が切れて、墜落する前にどこかに降り立ちたいものだ。

それとも、大学で社会学を学んだからなのか?
実際、どれも自分の思考回路の中に含まれている。判断不能になるが、まぁそれが自分だと開き直っている部分もある。
あまり良くは思わないけど、そうすることが今の最善策と自分の中で思う。
例えば「絶対~」では考えらない。何かを考えるときには判断基準が必要だ。道徳もその一つだ。
だから一般的な正義は(大多数)の正義とも考える節がある。
世界を円滑に回すためにはその判断基準が、重要になるのだろう。

言葉はナイフだ。文字にすると切れ味もあがる。磨きあげれば鋼の心も切れると考えてる。
だから、すぐに判断できなくなるのだろう。
私のナイフはどんな形をしているのだろう?

こうして自分の中で考え、思い、作りあげた答えは、おおかた過去の出来事を参考にするから過去の遺物の変形したものだ。
今これを書いているときも過去になって、取り戻すことができなくなるかもしれない。少しこわい。
過去の過ちは、修正することはできると思う。しかし、一度書いた紙の傷は、消しゴムで消しても、紙には傷はつく。
その繰り返しをすれば紙はいつかはボロボロになるだろう。
消さないで、その一つ下の行に新たに書き加えるのがいいかもしれない。

自分の中で考えを回せば、回すたびに迷路に入って出てこれなくなる。答えは出てこない。出口には出れない。
今自分に必要なものは道案内人かもしれない。過去の偉人たちに教えを乞う必要があるかもしれない。
自分の最短距離で答えを出せるときがくればいいのだが・・・。